さて、扉の向こうへ行きましょうか

被災地支援の方々のおかげで、先ずは被災地支援が見え始めましたね。多くの人達が気に病んでいた20日の心配も過ぎました。放射性物質の心配はこれからだとは思いますが。
さて、この扉の向こうへ行くのに確認しておかなければならない事が沢山あると思います。

先ずはこのクニに暮らす仲間だという事。
これは僕のまわりだけでしょうか、ここ名古屋ではほんの少し関東以北とはこの震災に対する感覚が違うような気がしています。別に喪に服する必要も無く、東日本の分まで経済を引っ張る必要があるのは間違いありません。
しかし、同じクニに暮らすものとして、東日本の痛みに寄り添って、暗くは成らずに行きたいと、いつもそう心しています。

そして何より、取り返しがつかない事態となった福島第一原発で何が起きたのか、この結果をもたらした原発にまつわる国政と電力会社の仕組みをしっかり確認して記録して問題点を明らかにしなければいけません。
実際の起きた事故、事実を検証することは感情的に「反原発!」を訴えるより何倍も意味があります。
福島第一原発での推移を見守る中で、日本の原発がどれほと一か八かの賭けのような設計が成されていたことが明らかに成ってしまいました。
津波によってこう成ってしまうと言うことが分かっていながら隠蔽しもみ消されていたこともわかりました。
稼働中の炉心だけではなく、使用済みの核燃料がどれほど危険なものなのかも分かりました。
今回の事故(単に運悪く天災にあったと矮小化してはいけません)で改めて注目されている、佐藤元福島県知事の語る官僚行政の実態。

こうした諸々を再確認して共有しなければいけません。
テレビ報道は今のところ、細々とした原発の推移や東京都が用意した水を具体的にどう配るのかとか、相変わらずワイドショーに戻ろうとしています。
被災地に入ったキャスターは時に涙まで流して報道の役割を口にしています。
ならば、それ程に責任を感じているのならば、今こそ政府・企業の手先、ワイドショーをやめてこの原発事故の責任を追求すべきです。
とはいえ官報複合体に期待して待っていても仕方がありません。
今回、膨大に蓄積された動画ソースを整理し記録し共有し、原発は可能な限り早く無くさなければいけません。

ところで、ビデオニュース・ドットコムで神保さんがインタビューしていた広瀬隆氏
原発の問題点をしっかり指摘されていて素晴らしいのですが、さらなる大地震への恐怖を煽るのはいけません。
さかんに仰る「直感で調べてみると…」も気になりますし地学的な理論の混乱と飛躍が散見されます、加えて何百年のスパンで考えて数年のうちに起きる地震の可能性を頭の中で焦りから混乱して数日中にでも大地震が起きるような言説はぜひやめていただきたい、そうした必要以上の不安から自殺を選んでしまう人さえ居るのですから。

あ!重要なことを思い出しました。
今回の東日本大地震は、数日前からかなり明らかな兆候がありました、膨大な予算を使っている地震予知の分野の皆さんの責任も
そろそろ議論しても良いと思います。

今だから見直すANPO

3月19日に名古屋でANPO(ANPO公式サイト:音が出ます)の上映会が行われました
親しくさせていただいている方が、名古屋でこの上映会をやりたい、監督に会ってみたいという思いで実現したイベントだったので、ほんの少し運営のお手伝いと当日の模様を録画・配信するお手伝いをしたのですが、 とても良い企画だったのでその時に思ったことを書き留めておきたいと思いました。
映画「ANPO」は、60年安保闘争をテーマにした絵画・映画・フォトグラフィ・舞台・歌などの芸術作品とその作者へのインタビューをオムニバス調にまとめたドキュメンタリ形式の映画です。念の為に書き添えると、安保闘争というのは戦後復興も一段落して日本がやっと高度成長期に差し掛かった時期、岸内閣が日米安全保障条約を更新する事を決め、それに対して多くの国民が反対運動を展開したにもかかわらず時限立法で成立してしまった事案です。
上映会は東北関東大地震の一週間後、果たして戦争だとか闘争だとかそうしたことに集中できるのかという不安を抱きつつ頭の中を切り替えなければと思ってオープニングタイトルを見ていました。
しかし、始まるとパワフルな芸術作品と対照的に淡々と語りかける作家の方々の話に引き込まれるのでした。 映像の中には、このところニュースで流れてくる東北の惨状と見紛うような焼け野原も出てきます、そう、戦争も天災も普通の人の生活に対する脅威としては同じ物、違うのは憎む相手がいるのかそうでないかと言う事。 憎むべき相手がいることはわずかでも救いになるのかそうでないか、それは人によって違うのだろうと思います。 しかし、このANPOで描かれた芸術作品には確かに憎しみが込められています、多くの作品が暗いトーンで描かれています、多くの作品で人はグロテクスにデフォルメされます。救いようのない心の痛みにとっての憎むべき相手と未来へ行こうとする時のその存在の意味は全く異なります。
ところで、先にも紹介したように日本全国を巻き込むほどの安保闘争は、結果として失敗に終わりました、実際に運動に参加した人の中からたくさんの負傷者が出ました、死者も出ています。実際に参加していなくても多くの国民は安保反対を支持していました、それでも日本政府は現在も続いている日米安全保障条約を更新しました。
この政治システムは今現在も何も変わっていません、それは敗戦後から今にいたるまで何も変わらず連続しているということに、改めて愕然とするのです。 映画の中でも安保闘争に参加した人々は、法案成立と共に「さて、闘争は終わった」といい、何もなかったかのように其々の社会生活に戻って行くのです。
しかし、加藤登紀子さんが国会議事堂をぐるりと取り囲む群衆を思い返して「これだけの仲間がいるんだ、うれしい!と感じたんです」と語っています。そして、今でもなおいわゆる国民世論を重視する根底にはこの安保闘争が生きているのだろうと信じたいのです。
ところでこの企画自体は、その友人が純粋に「やりたい!」と思って始まったのですが、予定の日が近づくにつれこの3月19日は、ここ名古屋の三回に渡る空襲の中で特にひどかった日にあたり、その時を知る多くの人が強く記憶を呼び起こされたようです。
深みのある映画作品を見てみんなでそれについて語り合うのは楽しいですね この時の模様は岩上さんのチャンネルで公開されています。
このANPOはすでにDVDになっています>ANPO

上り調子のイメージは

コサイングラフ
スポーツの世界でよく言われるイメージトレーニングは身体操作や良いフォームを作るものですが、成功・勝利のイメージを持つということも重要な要素です。
スポーツに限らず成功のイメージを持つことはあらゆるシーンで有効なのは考えて見れば当然で、人との関係性でも、よいイメージは表情や身のこなし、ささやかな言い回しなどに直接影響します。もっと言えばアイデアや直感は、記憶や経験の海のかなから必要な情報が顕在意識を介さずに引き出される物、その前提になるイメージや感覚が重要なのは疑う余地がありません。

はじめてお目にかかった人との関係は、それから幾つかのエピソードを経て出来上がっていきますが、考えて見ればそこで様子を探りながらエピソードを待つ必要がどれほどあるのか疑問でもあります。永いお付き合いの人とでも、なにかトラブルがあったときには信頼関係がグッと落ちたりして、そこからまたお互いに信頼が募ってよい関係へと戻っていくことになります。ならば、これからお付き合いが始まる人との関係も上り調子の坂に差し掛かったときのようなイメージで始めることはとても効果があります。

逆に相手に対しておそれを抱いている時、それは「転落のイメージ」となります「第一印象がとても重要」とよく言われます、勿論それはそうなのですが自分がそれに振り回される必要はありません、第一印象は単なる一つの情報として記憶しておくだけで十分でしょう。

人間関係以外にも、この「上り調子のイメージ」を意識して持つのはとても効果があります。

外交交渉を有利に進めるには、キーマンが意思を動かす動機とその組織が全体として納得出来るだけの道理が必要です。
そのことを踏まえて、この「上り調子のイメージ」から考えると、下記に詳しい小沢さんの対中国・対米国観が今の日本に必要なことがよくわかります。

まんがイラスト ぼうごなつこのページ 「BS11 INsideOUT 提言!小沢一郎 どこへ行く日本」

人前でアガってしまうのは

先日ちょっとすごい人と会ってきました、久しぶりに人に怯んでしまった
やけに大きく見えたのはその現れかもしれませんが、いわゆる「オーラが有る」と感じたのはその人の実際なのだと思います。

人に気後れするのは相手を重視して自身を何とか理解して欲しいという意識があるからです。
これに限らず何かに思い悩んでストレスを感じてしまう状態というのは、何らかの意図や目的、結果のために行動を自身に強要せざるを得ない状態であるにも関わらず、その前提と成る条件に不明な要素がある場合が多いです。そんな時人は挙動不審になります。
人前でアガってしまうのは、人からの評価を得たいにも関わらずそのためのツボが見つからないとか評価自体をフィードバックしにくい事が原因だったりします。
仕事がなかなかはかどらないとか悩みを解決出来ないとかの場合は、決断を出すために必要な条件の中に明確にできない要素が残ってしまっている場合が多いのです。
例えて言えば変数が3つの連立方程式なのに条件式が2つしか無い状態と言えばよいでしょうか。条件が足りないのだから明示的な結論は見いだせないのは当たり前なのですが、多くの場合は自分にどうしようもない条件がある事もわからなくなってしまったり、場合によっては自分がどんな結果を願っているのかさえわからなくなってしまっていることがあります。
出口のない檻の中で右へ左へと繰り返す虎のようになってしまうんです。
(追記:この件なにか違和感があり、後で考えていて気がつきました。今回は限られた貴重な時間内で最大限懸案を解消しようと、進行役という自負で「目的」を持っていたのに対して、一番の主眼が何なのかが不明という不確定要素が焦りに成っていたのだと思われます。これほどに自身の心は見通すのが難しいと言うことでしょうか)

自身がどんな意図を持っているのか、それを決める条件の何が不足しているのかを特定すれば混乱は収まります。自分ではどうしても特定出来ない条件がある場合は、悩むのをやめてしまうか条件を仮定で固定してしまうと、決定出来ない無限ループから抜けることが出来ます。
人の心の内で自分がどう評価されているのか、本当のところはけしてわかりません。
人前であがらないためには「聴衆をかぼちゃだと思え」というのはその条件を無い事にすること、相手は自分に好意をいだいてくれていると思い込むのは条件を固定することになります。

と、先日の後悔に対する自分の覚書でした。

ツイッターに響いた罵声

この件不快感を持って考えていました。ツイッターを含めインターネットではそれぞれの人の思いや行動に自由があることは認めます、しかしそれをある程度の実績と肩書を持ってイニシアチブを持つ可能性の有る人物が公共性を欠いた言動をしてしまうことを見逃すのはなんとも気持が悪いのだ。
詳細は http://togetter.com/li/13511 を見ていただきたい。
それは、知識人とおぼしき人物の見るに耐えない罵倒に女子大生が否定され続け結果的にはそれぞれ何らかの納得の上幕引きとなる。
そこには何らかの価値があるのだろう、父性に対する欠乏だとか相互依存による弊害だとかが理由かもしれない、公開で行うことも引き締まった議論の維持には必要だったのかも知れない、以前書いた宮台氏のように何らかの実験的な意味合いもあったのかも知れない、そうした過程でお二人はささやかでも何かの収穫があったのかも知れない、しかしその実際はそれぞれの頭の中にしか無いのです。
そこから得たものは先にも書いたように「それぞれ何らかの納得」のはずです、論点は当事者の女子大生なのだから。ましてや私も含めてそのやりとりを目にした第三者にとっては全くもってそれぞれにとっての何か以外には成り得ないはずです。
ここで最初に書いた「イニシアチブを持つ可能性を持った人物による公共性を欠いた言動」が問題に成るのです。
ツイッターはよく居酒屋に例えられます、見るからに知識人の成人男性が女子大生を相手にバカだとか売春婦だとかの言葉で罵倒している状況が居酒屋で展開されたらどうだろうか?
人付き合いに慣れていない人が目にしたら恐怖を感じるかも知れない、意味もなく怒りに感染してしまった人もいるかも知れない、人を罵ることに爽快感を感じひとカドの人物がそうした行動を取っても評価を得ているのを見てそれを基準としてしまったかも知れない。
そうしたことを危惧していますし、だからこそ私はこれを看過出来ないのです。
ツイッターユーザーが見ているタイムラインはすべて異なっていることは、この大学教授がご自身のブログで書いておられるとおりです。
それと同じようにすべての人の体験はツイッターに限らずすべて異なっていて、一人ひとりが持っている視点・知の地平は異なっているのです。
この大学教授は、もしかするとこうした手法で人を変えることができると言う幻想を持っているのかも知れません、それと同じくらいにご自身の言動が及ぼす影響を理解していないのかも知れないと私は考えました、それとも多くの人が同じような手法もしくは同じような気づきをこれらのやりとりから得ることができると考えておられるのでしょうか。
一緒に食事をしている人が料理への不満や自身の好き嫌いばかりを綿々と続けるような食卓ではどんな料理でも美味しくありません、楽しい食卓にしようではありませんか。

Twitterにゴミを散らさないために

ツイッターはやはり人間メディアなのだと思った。

今日一つの残念な事例を目撃してしまった、これは個人的にはUCCの件にも勝る事例となってしまった。
有名なネットメディアの主要パーソナリティと成っている人が時事にまつわる問題についての考察を連続ポストしたことに始まった。
わたくし個人としてはとても勉強になる内容で深く考えさせていただき感謝していたのだった。

なにやら前日から何らかの議論が有ったらしく、すぐにオポジットのリプライが有ったようだが、これに対していつも鋭く知的な論を展開しているその人が若干攻撃的な言葉を使って切り返し始めた。
ネットでは何らかの目的を持って攻撃的に議論を持ちかける人や単に反応が欲しいがためにあえて刺激的な言動で絡んでくる人などがどこにも変わらず存在している、最初の連続ポストをしたその人はそうした人物に同じような言動で応じ始めてしまったのだ。
その場を目にした私はツイッターは議論に向かないこと、本来はそうした反応はする必要がないことをいい添えてやめていただけるようにお願いしたのだが、その人は「引越しの合間の暇つぶし」とのことでそうしたやりとりは夕方まで続いたのだった。

ネットメディアのメインパーソナリティとして実名で活動しているその人と匿名でその意図さえ明確にしていない人物、問題は議論の行方などでは決して無い、実名で活動しているその人への信頼は議論の内容ではなくその場で展開される言動で失墜してしまった、少なくとも私には。

以前から私は「ネットではどんな場所でも自分に恥じない言動を」と言っている、そうコンピュータは情報を扱う機械なのだ、どんな場所での言動も情報として整理され伝えられる、だからこそインターネットでは「私」そのものが問われるのだ。
ツイッターでしばしば企業アカウントが取りざたされるが、その成功も失敗もすべてツイートをポストする個人に拠っている、もっといえばツイッターを活用しようとする企業は個人の人間力を企業イメージとして活用しようとしているのだ。
ましてやその所属が明確でその個性をブランディングに利用している状態で荒らし行為同様の言動は遊びとは成り得ない。
正直に言えば、タイムラインに眼にすることそれ自体人の心にゴミを撒くに等しい。

どうか謙虚に自身に向き合い、心のゴミは早々にお掃除していただけるよう強くお願いしたい。

追記:3月31日

特定の人を非難するのは本意ではありませんが、やはり事例を目にしていない方にわかりにくいようですのでトゥギャッターへのリンクを追記します。
外国人参政権について宮台真司さんと金明秀さんがバトっていた