「悪いのは誰だ」の強迫観念

ふと子供の頃の事を思い出した。
家庭内で何か問題が発生すると父が「誰だ?こんな事をやったのは」といいだす。ある日気がついた、「誰が?」と犯人さがしする必要なんてあるのか。
問題の原因をはっきりさせるのは再発させない為それが一つの進歩だ、「誰だ?」を問うのは原因を追及する一つの経過に過ぎない。人に原因があると言う事はその人物が故意に問題行動を行った時に限るはずだ。うちではそういった事はなかったが、何か粗相をした時失敗した「手」を叩いたり中にはヤイトと称して線香を押しつけられたという人も知っている。例えば子供がコップをひっくり返してしまって水をこぼしてしまったならば、親はテーブルの形状や椅子とテーブルの高さ関係に十分配慮してあげていたかを考える、等の子供には液体が入った器に対する警戒心を促すよう教える、それが原因を考え子供の成長を促す事になるはずだ。
子供のうっかりをただしかりつけるだけでは子供はよく理解できないままに苦痛と共に犯人さがしを習慣づけられてしまうはずだ。しかし、多くの人は問題が発生したら結果のみから責任を問われる環境で育ってきているのだろう。
大人も子供もキレやすくなっている、報道でも「生け贄」を必要とする体質、あるいはそうした配慮のない形式的な教育法が一因なのではないかと考える。
本来人は人を裁く事ができるのだろうか、悪意はその本人を害して苦痛となって返ってくるものだ。司法は世の秩序の為にやむを得ず行使されるもの、誰もが悪を見つけて責任を追及する状態はあまりよいとは思えないのだ。
余談だが最近問題になっているパロマの瞬間湯沸かし器は使い方が悪いと一酸化炭素中毒に成ることは常識だと昔聞いていた、ビールの宣伝で窓ガラスを割っても志村けんがイインダヨと答えるシーンが妙に懐かしく感じる、そういえば僕は子供の頃に近所においてある車の屋根に乗って遊んでいて怖いオヤジにしかられて逃げたりした記憶もある。
おおらかさに懐かしさを感じるのは少し寂しい。