ストーリーテラー

カバンの奥からジュースのノベリティが出てきました。
ゲド戦記、ノベリティさえどこか悲しい。
今見るとこの「戦記」という文字にも違和感がある、しつこいようではありますが 今だからこそ見えて来るもの感じることがあります。
ゲド戦記は映画館でみてまだそれほど日が経たないのに、すでに子供の頃に見た黄金バットガッチャマンに似てセピアがかった印象に成ってしまっている、他のジブリ作品とは明らかに違った形で心に収まっていて、それが原作者の落胆であるとか宮崎親子の確執であるとかのエピソードと組合わさって初めて切ない気持ちがしみじみと迫る一つの作品のように成っている。
そして映画のシーンはといえば、ドラゴンが登場する2〜3の断片だけが思い浮かび、そこで初めて原作者側のどなたかが語った「ドラゴンのシーンはよかった」を思い出すのだ。
他のジブリ作品とこれとの本質的な差は何処にあるのか、と考えるのです。
例えば「千と千尋の神隠し」では、白にぎりのエピソード一つで無表情なハクと不器用な千尋の人物が生き生きと伝わって来る、おにぎりを頬張る千尋のめに、少し誇張して書かれた涙がどれだけのことを語ったか。
映画ならば役者一人一人が役作りをして一人の存在が作られるのだけれど、アニメは書き込まないものは存在しないわけで、こちらに迫って来る「人物」は千尋の涙のように丁寧に作り上げて行かないといけなのでしょう。
それにしても何ヵ月かしてこころに残ってるものを見て初めてドラゴンに気付く僕はやはり芸術の消費者であってクリエーターにはなり得ないのですね。
ストーリーテラーになり得るには隅々まで矛盾の無い一貫性が必要で、それを最後まで通すことはとてつもないエネルギーが必要だ、だからこそ通常は複数人で協力しうみだしていく、そこを宮崎駿氏は一人でやり抜く力を持っているのですね。