教育は子供の問題ではない・行いの種

報道特集 | TBSテレビで上海万博と北京オリンピックを控えた中国の公共マナー教育を特集していた(現時点ではJNN報道特集のサイトは更新されていません)
道ばたで将棋や麻雀をしている人、電線に洗濯物を干す人、道ばたに座り込んでひまわりの種を殻をばらまきながら食べている人、バスの乗降でおりる人を押し込む勢いで我先に乗り込む人、電車の席取りのため窓から強引に乗り込む人、痰を吐く人、タバコを投げ捨てる人、当たり前のように信号無視する自転車や車や歩行者、歩きながらサトウキビをかじって滓を吐き散らす良識が有るであろう年代のお母さんと娘などを紹介し、その一方で大人向けの講演やキャンペーンそして小学校でのマナー教育が紹介されていた。
一般市民はマナーの必要性を否定はしない、が、それよりも先ず日常、一方子供はそれが正しいといわれれば素直に受け入れている、と言うように見受けられる。
最近日本でも道ばたに座り込んでいる若者が問題視されることがある。感覚として違和感があるもののそんなことはしないことが当たり前すぎて注意する言葉も見あたらないというのが正直なところだ。
この「感覚として当たり前」という点が重要なのだ、中国でのマナー教育にも欠けている部分かもしれない。
元々中国は儒教文化圏でそういった美意識を持っている国のはずだが戦乱と文化革命を経て美意識が一気に消失したのかもしれないし、もしかすると元々階級によって文化の格差がありサトウキビの滓を吐き捨てても違和感がない生活様式も共存していたのかもしれない。

日本ではどうなのだろう。
日本では幕末に来た西欧人が驚嘆したように「どんな片田舎のどんな貧困層の人々も清潔で不思議な品格が備わって」いたようだ。それが明治期の文明開化、敗戦後の貧困と資本主義化で相当に失われてしまった美意識があるように思われる。
僕は高度成長期の端緒に生を受け敗戦後の混乱を生きぬいた両親に育てられた、今の時代から俯瞰するならすでに戦後により近い ポスト戦後世代なのだと思う。
僕の両親世代の記憶にはまだ微かに日本人の美意識が残っていた。
本当はこうした「美意識は大切なのだが」生活のためやむを得ずがむしゃらに生きている、そうした姿を見て育ってきた。
その「美意識は大切なのだが」を目にしてきた最後の世代なのかもしれない、にもかかわらずそれを過去のものとして切り捨ててしまった結果が今の子供の、もっと言えばその子たちを育てた今の親世代の足りない部分が見えてくるのかもしれない。

例えば「美しい国」と言葉だけ発して「頑張った人が頑張っただけ報酬を得る」事をめざす今の資本主義社会は、電車で席を取るために横入りをして時には窓から強引に乗り込んでいる上海の人と同じなのではないのか、そこに共通して足りないものはなんなのか考えるべきだ。
そこに必要なのは美意識であり文化であり心を支える価値基準のはずだ。

ボーイスカウトの仲間に入る子供はそれぞれの年代に合わせたやくそくもしくはちかいを立てる。そしてある年齢以上の子供には自身の宗教を明確にすることを求めている。
そのボーイスカウトは物質文明のルーツにあたるイギリスが発祥になっていて「神と国とに誠を尽くし…」といって誓いを立てるのだ。
その価値基準となる「神と国…」を否定している日本では何を持ってそれに代えようとしているのだろう。

会社経営をしている知人の話によると求人に応募する若者の中に会社が休みの日でもなんの抵抗もなく電話してくる人が居るという、個人でも電話は遅くとも夜十時までもっと言えば九時を過ぎたら夜分の電話をわびる、そうした事が言われていたのは過去の事となりつつある。電話に出たら先ず自分が名乗るのと習ったことは現在では間違いで、かけた方が相手を「○○さんでしょうか?」と聞いて後に自分が名乗ることから始めるのが現代のマナーだそうだ。
茶席の作法には元になった理由があるようにマナーも理由があり時に変化していく、その際に基準となるのは思いやりであり心であり美意識であり、その元にある何らかの価値基準のはずだ。僕自身思いやりの至らなさから最近大きな失敗をしたのだが。
さて学校教育をえらそうに口にしている大人たちは資本主義の隙間を埋めるどんな価値基準を持っているのだろうか。