校長先生の自殺

ご本人への哀悼から声高には言われませんでしたが、教育の長にいる人の自殺という選択に 多くの人が思うことは同じでしょう。しかし、当のご本人自身がそのことを一番考えたことでしょう。
学校の人事権がその長である学校長にはなく教育委員会による人事の中での運用権しかない中、現場で問題がある人物が教職を取っていてもその任免権がないのだ、学校長はその限られた権限の中で社会的責任ばかり問われている。
さて、タレントのそのまんま東氏が立候補し東国原宮崎県知事となった。タレントが知名度を使って前県政の不祥事に乗じて当選しただけと言う見方も多く報道に流れる県議会の様子は相当に彼を侮っているようにも見える。田中元長野県知事が議会や地域の経済団体から受けた抵抗が思い出されるが同様な構造が内閣と官僚の間にもあるという。
政治に関わって報酬を得ている公務員、政治を利用することでお金儲けをしている人たち、そうした人たちが自分たちの既得権益を守るためにしがらみや不正な仕組みを知っていることが政治のプロだと勘違いしている人物たちを担ぎ上げる。「政党」は政治のためではなく個人の利益を通すための仕組みになっている。
一般の人は望まないのにいつの間にか政党政治が国の原則ということになり、選挙制度は大政党に有利に働き政党にはその人数に応じた助成金が国家予算から支払われている、公務員には平均で二倍以上の給料が支払われほとんど出勤しなくてもクビになることもなく定年後も天下り先があったりする、それらに対して選挙で選ばれた行政機関の首長はなんの任免権も持っていないのだ。
そして、ごまかしを覚えることが政治のプロだと勘違いしている人たちの行き場のために必要以上の議員さんたちを抱え続けている。もともと地域の要望をとりまとめるという目的から地域割りで議員を選出して来たはずだ、情報の流通が技術で補われ政治課題がよりホリスティックになってきている現代にそんな必要があるのだろうか。
時代が課題がどんどん早くなっている現代に柔軟に対応できないのもまた政治と行政が既得権を守る人たちによってになわれ続けているからにちがいないのだ。
選挙の投票率がどんどん下がる中で公務員にしろ圧力団体にしろ 政治から利益を得ようとする人々は積極的に自分たちの権利を守ろうとし政治家の労働組合のごとき政党を守ろうとしている、それでは個人のためあるいは地球環境のための政治など望めるはずがない。
そういえば前知事の行政にうんざりした宮崎県民が選んだそのまんま東氏は無所属だ、選挙の一票は無駄に見えても沢山の人が現政権にNOといえば先ずは何かが変わるのだ。
膨大な予算で公務員に垂れ流しながら財政赤字を理由に福祉の切り捨てと増税を語る行政を良しとしないなら、先ずは無駄に見える一票を投じるべきだ。
投票なんて十分もかからない、NOの声を一票で挙げなければ何も変わらない。