この世で人が成す癒しとはなんだろうか

最初に少々弁明をすると
このエントリーは特定の人や事を批判したり否定したりするものではありません。


下田に越してきてからはや1.5ヶ月が過ぎました
ペンションの本格的な稼動はいよいよ明日からですが、この付近の土地のことも徐々に分かってきて
人にも少しは案内できるほどになってきています。


そして、今日は南伊豆町で開かれた「フルートと朗読で楽しむ石垣りんの世界」
(ウエブ魚拓 http://s01.megalodon.jp/2008-0718-0007-37/www.kenkouikigai.jp/archive/02/0266NKv7Q58VPF.asp
へ行ってきました。

石垣りんはもともと好きでしたがそれほど期待することもなく仲間に誘われて行ったわけですが
行って見ると学校の体育館ほどの大きさの公民館に比較的年配の方々がたくさん集まっています、設置の椅子の八割程度は埋まっていたでしょうか。
南伊豆町の図書館に併設の公民館は、山間の田畑の中に寂しくあるだけのようなところで
そこに集まっている方々も、多分ほとんどが田畑の面倒を見て山を雲を風を見て日常を過ごす'普通の'方々なのだと思います。
企画をしたのはボランティアで学校に朗読に行っている'お話しボランティア「鮎の詩」'の方々、
この方々もごく普通の人たちです。


感激しました
丁寧で真心のこもった構成
「詩は理解すること」だとあらためて感じます、理解とは理を解すること。
派手さや特別な趣向はなくてもこれほどに質の高いものを見たことがありません
(ちなみに私はそれなりにいい年で、それなりにいろいろなものを目にしてきました)
しかも、山と海に隔絶された伊豆半島の南端
運営も観客もほとんどがごく普通の人たち(ゲストのフルート奏者:矢島一美氏以外…ですが)
ごく普通のおじさんおばさんが静かに熱く、詩の朗読とフルート演奏に聞き入っているのです。
人と自然の命と向き合った石垣りんの詩が読まれ、
フルートが懐かしく優しい曲を奏でます(夏の思い出・宵待草・からたちの花・荒城の月)
ありがちな曲目なのに胸に響くのは矢嶋氏の奏でる音色のせいでしょう
オリジナリティのある間奏では、平安の昔から山に森に谷に響いたであろう笛の音が映像になるようです。
少しにぎやかな茨木のり子の詩と石垣りんからの詩評のような友情のこもった一文
以前お付き合いのあったネット詩の方々のことを思い出したりしていよいよ懐かしい気持ちになります。
その後でアヴェ・マリアがそしてロンドンデリーの歌が奏でられました。


アヴェ・マリアを聞いているとやまあいの田畑を渡る風のようです
途中に公民館への道を聞いた老夫婦が目に浮かびます、
そのお二人は山から来た水を溜めた清水がたまる田んぼのマスから如露へと水を汲んでいました。
思えばその会場にいる人々も、多くはそうして日常を過ごしている方々です
あたかも「となりのトトロ」に出てきた猫バスからの風景のようにそうした人々が目に浮かびます。
美しく厳しい自然と豊かな実りをいつも目にしている、ごく普通の人たちです。
ロンドンデリーの歌はいつも夕暮れのオレンジ色を思わせます
この人々も夕暮れに一日をねぎらい、笑って、あたりまえに家へと戻るはずです。


曲目と説明だけでは伝えられない質の高い響きがありました
伊豆の南端で美の波動が天に上っているようです。


時代劇では貧困で描かれていた小作農も、実は俳句を読んだり墨彩を楽しんだりと高度に文化的だったとか
そう、こうした美しい自然の中にいると人はあたりまえのように美と文化を生んで自ら癒すことが出来てしまうのでしょう
都会でスピリチュアルカウンセラーのコンサートへ行くのもよいのですが
ここでなされている癒しと、生まれている笑顔は余りにも自然です。
それはあたかも、元気な食べ物と笑いとおおらかな心が人の身も心も健康にしてくれるのに対して
町の人の需要に答えて、啓示やメッセージや「癒し」を提供する人々は
サプリメントだの健康食品だの薬だのを「健康」と称して売っているドラッグストアーのようにみえてしまうほどです。


この地方にきて最初に思ったのは「自然が豊かなのに文化を感じる」こと
そして、地域のそこかしこ、あるいは全体が神社の心地よさを持っていること


そこいらじゅうに伊勢や熊野があるようなこの場所では
笑顔があたりまえのように光っているのでした。


「ぬち(命)ぬ、ちゅらさ(美しさ)
ぬちぬ、宝
てぃだぬ(太陽の)花、ちむ(永遠)にさちゅせ(咲かせよう)」
神人さんの歌の、大好きな一節が浮かびました。