ネットと現実の距離

もう何ヶ月も書こうと思いつつも書けずにいたテーマです。
一言で言えば、距離なんてありません
そんなものは幻想です。

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不毛です、このネットの問題に限らずあまりにも不毛な内容にちょっとした絶望感を持っています。
教育全体についていうならば、いまの世間で問題になっていることは戦後に断絶してしまった世代による影響のゆり戻し、もしくはその影響下で育った世代が親になったことによる変化、そうしたことに過ぎず、まさに今は、新たな振幅の中ですばらしい子供たちが育ちつつある時代です。
金髪だったりタトゥーを入れたりしていても、すばらしくピュアだったり頭がよくていいやつだったり、そうした若者は普通にいるのに、相変わらず混乱した戦後基準で評価しているうちは何も見えてこないだろう。
団塊の世代には戦後の日本を支えたことへの感謝を持ってはいるけれど、そのために捨てざるを得なかったものがあまりにも多くて、道徳観や価値観においてはもう引退していていただきたい。
ちなみに私自身は現在47歳、団塊の世代の次の付近だと思っています。

ネットと現実の距離は、改めて「無い」と強調したい
いや、正確に言えば「原理的には無い」かもしれない
ただただ人の精神性が追いついていないのだ。
匿名性がゆえに集まる雑多な情報から価値を抽出する知性と冷静さを持ち得ない
匿名の手前に隠れずにいられない弱さを支えられない
もしくはその弱さから出てくることができない
時間も距離も、社会的地位も年齢も関係ない純化された人間関係においては、より真摯に自身に向き合わない限り利用しきれないものなのだと思う。
ネットは怖い、ネットの扱いを議論しなければ…などと言っている、この番組のような人々は
逆に無意味な限界の中に囚われている人々、その限界の中で何を議論しても、もう何をかいわんやだ。
たとえて言えば、会社の現場にいる平社員は現場のことをよく知っているから「会社はこうあるべき」のようなことを何の恐れもなく口に出来るが、会社運営に必要な経験は現場の経験の中にはないのだ。街灯が照らせる範囲には限りがある、ひとは自身の目線よりも下のことしか理解できないのだ。足りない部分がその目線よりも上にあっても、その知恵が必要なことさえ理解できない。この「街灯の明かりの外」、自身に足りないこと、自分が無知だということを認めるということが第一歩、そしてとてつもなく難しい一歩なのだ。

ここで、いつもの悪い癖
書きたいことを書いたらモチベーションが失せてしまった。
この、「ネットの意味」についてはまたいつか改めてまとめたいと思います。