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そろそろ追われるのはやめにしないか

いくつまでだっただろうか、子供の頃から夢の八割がたは何かに追いかけられる夢だった。気がつけばそうした夢はほとんど見なくなったけれど、そうした心理状態が常態化していたんだろうと思う。
ありがたいことにがり勉を求められる環境ではなかったけれど、父の小さな欺瞞のために劣等感をもらったり、宿題をごまかし続けたりはしていた、そして何か漠然とした焦りのようなものも常に抱えていたように思える。
納期がある仕事には納期に、営業の仕事では営業成績に、企画の時には結果に追われていた。
よい夫や父親や立派な社会人、そうした何らかの「像」にも追われていたかもしれない。
けれど「追われて」と被害者のような表現をしていても、突き詰めればその大元には何らかの望みや恐れがあったはずで、いつの間にかその目的も忘れて追われてしまっていたように思う。

小・中学生の頃、特別努力をしなくても勉強もスポーツも抜群の人たちがいて、何でだろうと不思議に思っていたのだけれど
彼らは「追われる」ことなく楽しんでいた、逆に言えば追いかけていたんだと思う。
日本のスポーツ界では十年ほど前からそうなってきているようだけれど、社会全体としてはますます追いかけられる状況のようでどの世界でもあまりにも近視眼的です。
そうした歪:恐れが連鎖していて一番弱いところに「いじめ」として現れたりしているんです。

しかし人が直接変えられるのは自身のことのみです。
「親が」とか上司が会社が環境がといっていても始まりません。
大元にあるなんらの望みや恐れを一旦手放すか、そこまで行かなくても保留にして
ひとまず目の前のことを追いかける、もしくは熱中する、もしくは楽しんでしまう、そうなれたら追われることをやめられるかもしれません。
そうなったら組織のために違法なことをせざるをえないなんてこともなくなるだろうし
家庭に戻ったときに「仕事で苦労してるんだから」などと空威張りをしなくてもよくなるかもしれない。
捏造や偏向報道に追われたり、ほとんど選挙のためだけに政治資金をかき集めたりしなくてもいいかもしれない。
人はやりたいことしか出来ないんです、楽しんでやったほうが間違いなくよい結果が出ると思います。

あ、そうそう
「日本という国は…」などといってないで選挙の時には賭けに乗って一票投じましょうね