名前の功罪

『名前』はある意味『道具』です、物事を頭の中で整理するためのタグといってもいい、頭の中で分類・分析するには『名前』で要素化する必要があるわけです。 学問や科学は分類・分析が基本的な手法なので、学校で勉強してきた頭にとって名前を知るというのは心理的に安心感がある、名前を知るとそれは分かったものとして頭の棚にしまうことが出来るわけです。だから知らない花を見つけると図鑑で名前を調べたくなるし、血液型で性格を分類すると「この人はこんな人」と整理できて安心なのです。
しかしながら、名前で区切るということの危険性もあるわけで、それが『レッテル』としてアジテーションや差別に悪用されることもあります。 また、たとえば虹を見ると日本人は七色といいますが地域や民族によって5色だったり2色だったりします。人の性格も四つに分類できるわけがありません、四つに区切るのが極端ならば十二星座で分けてみますか、あるいは心理分析の手法でも理解の助けにはなっても限界があります。分類・分析をするということはその区切りの外側に切り捨てた部分があるということを忘れてはいけないのです。
「知ることと理解することとは違う」というのも同じ事なのかもしれません、理解するときにはそれまでの経験をひっくるめた上で「腹に落ちる」わけで、頭の中での分類とは違ったホリスティックな何かがあるのです。また、何かの創作をするときや技術的なブレークスルーを体験するときにはそうした分類を超えた、頭の中の混沌から何かを引き上げるような体験があると思います。
さて、青柳ひづるさんというダンサーがいます。
たとえば、身体表現が音楽で言うインストゥルメンタルならば顔の表情はボーカルなんですね、青柳ひづるさんは何も囚われることがなく純粋な『うた:表情』が魅力的なダンサーです。
そんな彼女が“コンテンポラリーダンスってなんだ? | Wonderland”というエントリーを書いています。
どこの民間伝承だったか忘れてしまいましたが、神様(精霊?)は隠された本当の名前を持っていてそれを知りうればその存在を自由に出来る、とか。 その本当の名前というのはその物事あるいは心が自身で持っている『くくり』であってそれを指定されることで自身に限界が出来るということだとも考えられます。
青柳さんは“ダンスってどんなダンス?と言われればコンテンポラリーダンス、と答える”ことで単にタグを示していたのだけれど、何かのきっかけで『コンテンポラリーダンス』を自身にとっての区切りに、つまり自身のダンスの『本当の名前』にしてしまったのではないでしょうか。
しかし、この記事を書いている時点では

コンテンポラリーダンスの先を探求してごらん、と。
しかしそう言われたところで
それがなんなのかなんてちっともわからない。
そもそも何かあるのを探すわけではなく
結果そうなる、ものだろうし。
それは先に進んでいるようであって
後ろにもどっているようでもあるのかもしれない。

と、すでにその出口にいらっしゃる様子です。
ぜひ、彼女の表情のように、自由にのびのびと踊っていただきたいと願っています。