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ツイッターに響いた罵声

この件不快感を持って考えていました。ツイッターを含めインターネットではそれぞれの人の思いや行動に自由があることは認めます、しかしそれをある程度の実績と肩書を持ってイニシアチブを持つ可能性の有る人物が公共性を欠いた言動をしてしまうことを見逃すのはなんとも気持が悪いのだ。
詳細は http://togetter.com/li/13511 を見ていただきたい。
それは、知識人とおぼしき人物の見るに耐えない罵倒に女子大生が否定され続け結果的にはそれぞれ何らかの納得の上幕引きとなる。
そこには何らかの価値があるのだろう、父性に対する欠乏だとか相互依存による弊害だとかが理由かもしれない、公開で行うことも引き締まった議論の維持には必要だったのかも知れない、以前書いた宮台氏のように何らかの実験的な意味合いもあったのかも知れない、そうした過程でお二人はささやかでも何かの収穫があったのかも知れない、しかしその実際はそれぞれの頭の中にしか無いのです。
そこから得たものは先にも書いたように「それぞれ何らかの納得」のはずです、論点は当事者の女子大生なのだから。ましてや私も含めてそのやりとりを目にした第三者にとっては全くもってそれぞれにとっての何か以外には成り得ないはずです。
ここで最初に書いた「イニシアチブを持つ可能性を持った人物による公共性を欠いた言動」が問題に成るのです。
ツイッターはよく居酒屋に例えられます、見るからに知識人の成人男性が女子大生を相手にバカだとか売春婦だとかの言葉で罵倒している状況が居酒屋で展開されたらどうだろうか?
人付き合いに慣れていない人が目にしたら恐怖を感じるかも知れない、意味もなく怒りに感染してしまった人もいるかも知れない、人を罵ることに爽快感を感じひとカドの人物がそうした行動を取っても評価を得ているのを見てそれを基準としてしまったかも知れない。
そうしたことを危惧していますし、だからこそ私はこれを看過出来ないのです。
ツイッターユーザーが見ているタイムラインはすべて異なっていることは、この大学教授がご自身のブログで書いておられるとおりです。
それと同じようにすべての人の体験はツイッターに限らずすべて異なっていて、一人ひとりが持っている視点・知の地平は異なっているのです。
この大学教授は、もしかするとこうした手法で人を変えることができると言う幻想を持っているのかも知れません、それと同じくらいにご自身の言動が及ぼす影響を理解していないのかも知れないと私は考えました、それとも多くの人が同じような手法もしくは同じような気づきをこれらのやりとりから得ることができると考えておられるのでしょうか。
一緒に食事をしている人が料理への不満や自身の好き嫌いばかりを綿々と続けるような食卓ではどんな料理でも美味しくありません、楽しい食卓にしようではありませんか。