人を突き動かすもの

ツイッタークライアントの下書きに「音楽や芸術・自然の美しさから感じ取る歓びと、ゲームや果てはギャンブルなどから感じる悦びは全く別のところに届きます」と書いて、その先が書けずに放置していました。
そもそも人は動物として生きる本能をもったもの、その本能を持った肉体の上に人の思考や魂は乗っかっているんです。
キリスト教的な意味でのエロスとアガペは種を保存する駆動力と理解するとわかりやすいかもしれません。
膨大な忍苦と労力を必要とする子供を残すという事業には抗い様がないほどの衝動もしくは悦びが駆動力として必要でしょう。なぜか「おめでとー」と盛り上げる結婚という儀式もまた、血縁からのエールと言えるかもしれません。
ちょっと生々しいのですが、性交の悦びの核心は何かと考えたことがあります。男性ならば大地や家庭で象徴される相手に自分自身の奥深くに一部を植えつけるイメージに近いでしょうし、女性ならば力強かったり知性が豊かな「尊敬できる」相手自身を自らの内に受け入れるイメージが近いのではないのでしょうか。
一般的な話をするなら、男性にとってはおおらかで豊かで守るべき存在の女性、女性ならばそこに「尊敬しうる」男性という要素が、子孫を残す歓びにとって不可欠なんじゃないでしょうか。
主夫をしばらくやってみると、この根っこの部分で現代は矛盾をはらんでいるような気がします。
友達のような優しいお父さんでは危険が迫った時明確に導き守ることが難しいでしょうし、尊敬して恐れる存在が居なかったなら子供はどうやって社会を学ぶのでしょうか?
いつも神経質で強い主張を口にして小さな子供にまで厳しいお母さんしか知らなかったら、人はどうやって人を信頼して慈しむ事を知るのでしょうか。
いえいえ、ここはどうか自分に引き寄せないで大きい意味での社会や家族のシステムの話だと思い描いて下さい。
そんなふうに考えてくると、今の若い人達が憧れる人間像は、異性に対するエモーションをいだきにくいということに気が付きます。草食系男子だとか淡白な男女とか、もっと言えば人口問題だってこのあたりに根本的な原因があるんじゃないかと思えてきます。
さて、芸術とゲームとの歓びの違い。
芸術の歓びには哲学的な何かが…などと考えていましたが、なんのことはない、ゲームやギャンブルは狩猟や闘争の時の達成感、芸術は豊穣を得た後の平和の歓び、そんな程度のことのようです。ただ、達成感は危機や恐怖に追われた果ての、芸術は歓びのための歓びという点で大きく違うのですが。