傷心で旅立つ人に思いを寄せて

何度か書いていることですが、沖縄の色々なところで目にする「命の美らさ」って言葉が大好きです。僕達の日常に「命の美しさ」なんて言葉は使いません。

沖縄の人が「命の美らさ」という時、その目には何が写っているんだろうと思うのです。
青々としたさとうきび畑、美しい南国の花、色とりどりの魚、それら美しいものの向こうにある生命を見ているんだと思うのです。

例えばニコニコ笑っているダウン症の子供を優しい目で見守るお母さん。「この子はほんとうに優しいんです。」「大変でしょ?って言われるけれど、この子からたくさんのものをもらっているんです」と。
そんな様子を見ていると、僕は人の「命の美らさ」を見た気がして胸が熱くなるのです。

だから、5弁有るはずの赤い花のたとえ2弁が汚く縮れてしまっていても、みずみずしく赤く上を向いて咲く花が実を結ぶ営みが、その花の向こうに見えるから、花びらが欠けた花にも美らさをみるんです。

人の悩みは、本人にとってはもちろん大切な問題だし、自分の痛みは誰にも理解できないけど、悩みや苦しみが解決するときのほとんどは、本人が抱えていた痛みのその部分とは全く違ったところに答えがあるんです。

花びらの傷みがあっても花は美しいんです。試験で間違えたって、もう怖がらなくていいんです。

知らなかった業界

この記事ではお客様のサイトを取り上げています。

お客様でバッティングセンターを運営している会社があります。
僕自身は全く縁がなかった世界(実は野球にもほとんど…)なのですが、ホームラン大会を全店制覇すると張り切ってるお客さんがいたり、少年野球チームが貸切で練習してたりと、お店とお客さんの距離の近さに驚きます。
その一方で、お店に取材に行った時に見かけた人
開店を待って入ってきた女性、パンパンパンと何発かボールを打ち返したあと、少し座っておてふきを使ったりしてさらっとお店の前のバス停からどこかへ…
なにか不思議とカッコいいと思ってしまった。

で、少し宣伝なのですが…
このお店が自社でピッチングマシンを作ったりして販売やメンテナンスを受け始めたので、この告知ページをここで…
ピッチングマシン販売とメンテナンス:(株)マルエ

追記:そういえばこの地方でバッティングセンターというと、イチロー選手が通いつめたというバッティングセンターが有名ですねぇ。高校時代の友達が東京から里帰りした時、子供をバッティングセンターに連れていくというので「行ってみてよ」って言ったら「いやイチローの…」と言われてしまった。

一人ひとりの世紀末

少し前の雑誌を読んでいてこんなフレーズを目にしました。

国民の健康や安全を担うべき国家が
心のそこから信じられなくなったとき、
ぼくたちが選ぶべき道は一つ、
自分たちが理想とする環境を自分たちの力で、
築きあげていくしかないと思うんだ。

        • SPECTATOR Vol.25

これを読んで、なにか遠い記憶がよみがえって来ました、文明崩壊のその後。

もうほとんど忘れられてしまっているけど、僕はノストラダムスの大予言を真に受けてしまった世代です。中年以降の自分の生活は無いんだろうとぼんやり考えていました、まだ時々映像や話で見聞きした戦後の焼け野原を未来に想像して、サバイバルとかにいつも関心を持っていました。

少しオカルトチックな話になりますが、神様は人々が苦しむ事なんて本当は望んで無くて、出来るだけ苦しまないで次の世に移れるように働いてくださっている…とか、心ある人達は災害を出来るだけ軽く済ませられるように祈っているとか…そんなこんなで、もしかすると仏教で言うところの末法の世は既に過ぎて新たな世界へと移りつつ有るんじゃないのか?
いま僕たちはそれを生み出しつつ有るんじゃないのかと、先に引用した文章を読んでいてぼんやりと考えていました。
もしかすると、清い心の方々はすでに向こうに行ってしまっていて、今眼の前にある世界は取り残された人々のどうしようもない世界なのかもしれないけど。

それはともかくとして、テレビの作るまぼろしの世界に住んでいる人とかビジネスや自分の権益しか見えなくなった人以外にとって、
いまは自分にとっての、一人ひとりにとっての世界を組み直さないといけないトキなのは多分明らかなのだろうと思うのです。

そう考えたらキリスト教やら仏教やら、大予言やらアステカの暦やらに書かれてきた事はあながちでたらめじゃなかったのかもしれない。

人を突き動かすもの

ツイッタークライアントの下書きに「音楽や芸術・自然の美しさから感じ取る歓びと、ゲームや果てはギャンブルなどから感じる悦びは全く別のところに届きます」と書いて、その先が書けずに放置していました。
そもそも人は動物として生きる本能をもったもの、その本能を持った肉体の上に人の思考や魂は乗っかっているんです。
キリスト教的な意味でのエロスとアガペは種を保存する駆動力と理解するとわかりやすいかもしれません。
膨大な忍苦と労力を必要とする子供を残すという事業には抗い様がないほどの衝動もしくは悦びが駆動力として必要でしょう。なぜか「おめでとー」と盛り上げる結婚という儀式もまた、血縁からのエールと言えるかもしれません。
ちょっと生々しいのですが、性交の悦びの核心は何かと考えたことがあります。男性ならば大地や家庭で象徴される相手に自分自身の奥深くに一部を植えつけるイメージに近いでしょうし、女性ならば力強かったり知性が豊かな「尊敬できる」相手自身を自らの内に受け入れるイメージが近いのではないのでしょうか。
一般的な話をするなら、男性にとってはおおらかで豊かで守るべき存在の女性、女性ならばそこに「尊敬しうる」男性という要素が、子孫を残す歓びにとって不可欠なんじゃないでしょうか。
主夫をしばらくやってみると、この根っこの部分で現代は矛盾をはらんでいるような気がします。
友達のような優しいお父さんでは危険が迫った時明確に導き守ることが難しいでしょうし、尊敬して恐れる存在が居なかったなら子供はどうやって社会を学ぶのでしょうか?
いつも神経質で強い主張を口にして小さな子供にまで厳しいお母さんしか知らなかったら、人はどうやって人を信頼して慈しむ事を知るのでしょうか。
いえいえ、ここはどうか自分に引き寄せないで大きい意味での社会や家族のシステムの話だと思い描いて下さい。
そんなふうに考えてくると、今の若い人達が憧れる人間像は、異性に対するエモーションをいだきにくいということに気が付きます。草食系男子だとか淡白な男女とか、もっと言えば人口問題だってこのあたりに根本的な原因があるんじゃないかと思えてきます。
さて、芸術とゲームとの歓びの違い。
芸術の歓びには哲学的な何かが…などと考えていましたが、なんのことはない、ゲームやギャンブルは狩猟や闘争の時の達成感、芸術は豊穣を得た後の平和の歓び、そんな程度のことのようです。ただ、達成感は危機や恐怖に追われた果ての、芸術は歓びのための歓びという点で大きく違うのですが。

原発対応の失敗を考える

原発事故はまだまだ先が見えない状況で注視が必要ですが、菅総理が内閣で事故調査委員会を招集し委員長に失敗学の畑村東大名誉教授を起用したとのこと、その後同委員長が「責任追及は目的としない」と明言したとのこと、こうしたニュースを目にしてどうしても違和感が拭えませんでした。

その後少しの間「失敗学」という言葉が話題になったりしたが、素人がざっと調べた範囲ではどう考えても自分の違和感を埋められそうにないため勝手に考察してみることにした。

反省の階層


何が失敗だったのか


これは事故調査委員会である、内閣が招集・選任した委員会が東電と政府という責任者の対応を検討するとの言う事、その意味では菅総理の「私自身を含め、被告といったら強い口調だが、『出席しろ』といわれれば出席する。政府から独立してしっかり判断してほしい」というのは、この状況でアタリマエ以上の物には成っていない。

報道によると
”「社会システム等検証」「事故原因等調査」「被害拡大防止対策等検証」「法規制のあり方の検討−の4チームで構成される。炉心溶融(メルトダウン)や水素爆発といった深刻な事故に至った後の東電の対応だけでなく、後手後手に回った政府の対応も検証の対象となる。”

との事だ。

誰が失敗したのか


さて、先にも紹介したように畑村委員長は「「原因究明の動作ができなくなってしまう」として責任追及は目的としないと明言」との事です。

しかし「事故」に対して過失が誰にあったかを調べないなどということはありえません。

例えば東京電力による賠償を考えるにあたっても、許認可権も監督責任も持ち具体対応に対する命令権者でもある政府との過失割合を検討するにも「誰が」は必要になってくるはずです。
加えて、「何が」失敗だったかのフィードバックは「誰が」が明確でない限り行き場を失うでしょう。

もっと言うならば、政府側の賠償責任を最終的に負うのは私たち国民に成ります、国民は何故責任を負わなければならないのか、それはこれまでのエネルギー政策を黙認した事に加えて
今の政府を衆議院選挙で選出してしまった責任を負うと言う事になります。

それを省みるには誰が失敗したのかは明確にしていただかない限り、次に行けないはずです。


備えはあったか


さて、僕が一番違和感を持っていて、もっとも重要だと思うのはこの点なのです

備えは明確になかった

それは、永年言われていた原発神話によります。

実際に小さなトラブルに対する対策が提案されても「事故を起こさないはずの原子力発電に対策は不要」といったような論理で対策が講じられなかったという証言がたくさん出ています。

一部では絶対安全なはずの原子力発電所の設計に手を加えると周辺住民の不安を招くだとか、コストを下げるために安全装置を取り払ったというような事実も有るようです。

同じ理由から事故を想定しての対応マニュアルもなければ、原発関係者は地域の防災訓練にさえ出席しなかったということです。

つまり備えはなかったのです。
それならばこの失敗を教訓に事故を想定したマニュアルを用意すれば良いのでしょうか?

今回の事故は主に津波によってもたらされたものだから、津波対策に「フェンス」(!)と予備の発電機を追加すれば良いのでしょうか?

重大事故に進行した原因と成った水素爆発を避けるため、コンクリート製の建屋に穴をあけておけばいよいのでしょうか?

マニュアルは本物ならばまだ良いかもしれませんが

その他の対症療法は備えとは言えません、そもそも竜巻対策で予備発電が地下に有ることも分からないような輸入品を使っていて、現場の一部の人以外はトラブルの予想も対応も分からない人達が決定権者のまま、この重大事態に今も対応し続けているのです。

ここで、もっと重大な準備不足は表向きに悪用してきた安全神話を政府自身が囚われていて、内部的にも予測することを一切避けていたということです。


ぜひ考えたい…


この国土を喪失してしまうほどの事故を検証するにあたって、政府が思考停止して備えがなかったということを十分に検証しなくて良いのでしょうか。

これを強く強調したい、

なぜならばこれと同じ思考停止は国際関係にも起きており、

今現在も進行中であり、

今こそ重要性を増し続けているからです。

元国際情報局長の孫崎享氏が指摘してるように、防衛の主翼を担うはずの米軍は日本のために機能してくれません。にも関わらず日本政府はアメリカ依存をやめるどころか、日本の官僚が日本の内閣の分析をアメリカに報告しており、アメリカの付属機関とも見紛うような働きをしています。アメリカのために日本の経済を丸裸にするような条約を推進しようとまでしています。

アメリカの意向を大切にすれば日本は安全だと言わんばかりにこの従属関係を戦後一貫して続けており、

アメリカに対してもしたたかに国家戦力を持つことは言語道断だとばかりの思考停止を続けているのです。

まさかこの指摘に唐突感を覚える人はいないでしょう。

もちろん福島第一原子力発電所の事故調査に外交問題は乗っては来ないでしょう。

しかしながら、ぜひとも「何故備えがなかったのか」を掘り下げていただきたいのです。

自家製入浴剤


日向夏八朔、天草晩柑。春先に色々出てくる柑橘類が好きです。
で、その皮が余りにもいい香りなので、お風呂に入れるべく色々と工夫してみました。

基本的に切ったり剥いたりするまえに中性洗剤で洗っています。最初は普通に剥いたそのままを入れてみましたが、湯の中で揉むことを考えて排水口用のごみ取りネットに入れています。

でも、そのままだと意外と香りが出ないんですね。なので、鍋で少し煮た物を使ってみました。だめです、加熱すると香りが変質してしまいます。

いわゆる植物ベースのエッセンシャルオイルは、乾燥した材料に蒸気を通して、揮発油性のエッセンスを抽出します。というわけで、軽く乾燥させて千切りにしてみました。八朔はこれだけで少しベルガモットに似た良い香りに成りますが、お風呂に入れるともう少し香りが物足りません。

今度はお茶の作り方を思い出して、生乾きの状態でやはり千切りにして。それをガシガシと揉んだ後、しっかり乾かしてみました。とてもいい感じです、揉んだことで果皮の綿の部分も出るようでお湯の肌触りもよくなります。ちなみに、まさにお茶のように90℃ほどにわかしたお湯ですこし抽出してみましたが、あまり効果は有りませんでした。多分抽出している間に香り成分が飛んでしまっているのだと思います。

ところが、天草晩柑で同じようにやってみると、あまりよい香りが出ない。僕はよく入浴剤替わりに塩をいれます、そこにクエン酸を入れることもあります。ちなみにクエン酸は洗剤のアルカリを中和するリンスとしても使いますので、クエン酸 は荒れ気味の肌にも良いようです。肌がきれいになると言われる温泉はアルカリ泉が多いのですが、アルカリのお風呂は垢がよく取れますので、クエン酸と変えて重曹を入れても良いです。ただし、クエン酸と重曹は一緒に入れると中和して炭酸を出しますので注意してください。

というわけで、生乾きの天草晩柑の皮を例によって千切りにして、塩とクエン酸をまぶしてよくもみ、ファスナー付きの袋に入れて少し休ませます。これを、排水口用のごみ取りネットに入れて(一回に2〜3個分程度)お風呂に入れて軽く揉むと、お湯は少しにごりますが、香りも肌触りも良いお風呂に成りました。
これ、今一番気に入ってます。

ちなみに、お風呂に塩などを入れると配管が悪くなると心配される方がありますが、たとえばお風呂に男の手で一握りの塩を入れても、なめてみるとほんの少し塩味を感じる程度で残ったラーメンの汁などと比べると全く問題がないと思われます。

家族がいらっしゃると難しいことも有るかもしれませんが一度おためしを、きっとお風呂がいよいよ好きになります。

原発はいわばドーピング

科学的事実だとか常識だとかが簡単に覆って省みることがない、そうした事例をこれまで幾度と無く観てきた。
しかし今回の原発事故は顧みざるを得ない事例となっている。天災がきっかけだとは言え、施設の不完全さとそれに対する対応のごまかしから、日本に人が立ち入ることができない「ゾーン」を作ってしまった、その事実はごまかしようがないからだ。
今回の事故は政府の誤謬に加えて科学の誤謬もたくさん目にすることになった、放射線による人体への影響さえ統計的な通説しかないのだ。

これまで政府と電力会社は原子力発電所は100%安全だと言い続けてきた。そのため今回のような事故への対策は一切なかったし、膨大なコストをかけて原発は安全と言い続けてきた、教科書にさえ影響力を行使したという。100%安全ということにしてリスクに対するコストを見積もらず、廃棄物処理のコストも除外して格段に発電コストを安く見積もってきたという。
※参考資料(PDFです):原子力政策大綱見直しの必要性について 費用論からの問題提起

こうしたエネルギー政策は大前提に電力を大手電力会社に任せる:独占させるという固定概念から来ている。
化石燃料による発電に変わるものは原発しか無いというのは、電力会社とそれに関連する既得権益を維持するためにはという大前提が付いていて、そこでほぼ思考停止していたのだ。
原子力発電は小回りがきかないため、発電量の調整は水力と火力で行っている。核分裂で発生する熱量も管理しきれずに相当量無駄に放出している。使用済みの核燃料は長年熱を出し続けて冷却保管が必要で、加えて放射性廃棄物の最終処理も確立されていないため地中深く埋めておくしか無いのだ。

こうして考えると、原子力発電はいわばドーピングのようなもの、毒物を使って過剰にマッチョにする。
そう、実際のところ日本は核爆弾をもたないのだけれどその気に成れば作ることが出来るというポーズの役割も持っていた。

さて、ドーピングのせいで福島は病んでしまった、日本はこのまま原発を続けるのでしょうか?
それともエネルギーの自給自足も含め生活習慣を改めて知的な社会へと舵を切るのでしょうか?