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道と教え

人の認識はスポットライトの光の中ににている、光の外がある事を認めない限りどれだけ言葉を尽くされても光の内だけで理解し否定する。
参考まで:僕の拙い喩えよりも下に出て来る「目の前の餌を見つけられないカエル」の喩えを読んでいただけると有り難い。もちろん本論も非常に興味深いです。
後藤貴子の米国ハイテク事情



以前紛争と日本文化 - ことば:こころでリービ秀夫氏の言葉を引いて今の時代に日本が果たしうる役割について触れた事がある。この点について自身の中で熟成が進んだのでまとめてみたいと思う。
以前はキリスト教圏の文化においてアニミズム(汎神論)を原始的、未開な社会のものと言う考えがあった、それは自然は人間が利用するためのものとの認識からであって環境問題がクローズアップされつつある現代それは見直されつつある。それは日本を起点に見た場合中国よりも東南アジア、オセアニア、アメリカ先住民等の環太平洋に普通に見られる世界観であり、覇権争いの渦中にあったユーラシア大陸の物質的利益を求める文明の方が特殊であるようにも見える。
日本人の「カミ」のイメージは先の記事に書いたように何処か人知を越えた奥まった場所に鎮まる尊い存在であって、キリスト教やイスラム教のようにあえて偶像崇拝を否定するまでもなくお社や山や岩に座す目に見えない存在であり、常に人の生活にそっていて敬意を払う存在と「感じ続ける」ものなのだ。身近に尊い方を思い描き感じ続けているからこそ人の道としての神道があり道を外れたことを成してしまう時には耐え難い罪悪感を覚えるのだ。三大宗教にはどれも成文化した戒律がありそれを守る事で心の平安を功徳を死後の安寧を約束している。戒律を憶え頭で実行して行いにしていく、それは教えなのだと思う。日本人の多くは仏教徒でその他キリスト教などもおおらかに受け入れてきたという、しかしその実は仏像として形があり経文や聖書のような聖典がある「わかりやすいツール」として用いてきたのであって、その実そこに記されている核心を理解するにすでに心の内にある「道」を通していたのではないのか。
西行法師の「何事のおわしますおば知らねども かたじけなさになみだこぼるる」という心情はその「道」があるからこそであろう。
日本文化を研究している人たちは必ずきまって文明のルーツを中国に求める、しかし日本語にある単語と類似のものを世界に探す時 大陸よりも環太平洋におおくを見いだす。物質主導の文明から、もしくは逆に物質支配から逃れ否定することから離れ、心に寄り添う尊い存在尊い道に目を向けても良いのではないだろうか。

では、その目に見えない尊い存在を身近に感じる感性は、道を外れる事を恐れる感性は一体どうやって培われているのだろうか。それはお正月の習わしを始めとする年中行事やほとんど何もないお社に尊い方を思い描き敬う家長の姿を見て当たり前の事として飲み込んでいっているのではないだろうか。
このところポスト小泉の道具として、もしくは憲法改正の端緒として教育改革が取りざたされている。
自由、平等、博愛のごとくいかにも正そうなこと、核心以外はほとんど同じことを言っているような言葉で実は全く正反対に働く場合がしばしばある。「美しい国」などと曖昧な言葉、少し転べば国家主義にも向かいかねない言葉でごまかすことなく、自国の文化を正しく再発見し整理する事、そしてそれを共有する事を願うばかりである。