シンクロニシティは個人体験にこそ価値があるのだろう

少し前のことで言えば、王監督引退の重さと福田元首相の軽さ
選挙一辺倒の麻生首相就任演説とオバマ大統領の就任演説
ひき逃げ>引き回しの血痕をグロテスクに追ったり校長の理不尽な謝罪をカメラで後押しする報道と筑紫氏の死去

昨晩放送のNHKスペシャル|デジタルネイティブをみた
個人的には「何をいまさら」という印象なのだが、ここで「それじゃあ何を問題とすべきなのだろう」と課題も見えた
Webの価値は明らかだ、青少年に与える問題も多く議論されている
もうそろそろそれをまとめて考え、価値のある常識を作る必要があるのではないだろうか。
時同じくして「インターネットを使い続けていると頭がよくなったと勘違いしてしまうのではないか」というような趣旨のエントリーを見た。
ブログでも2ちゃんねるでもはてなブックマークでも炎上状態のときの発言はあきれるほど確定的で自信に満ちた意見があふれている、そうした見かけによらず内容はちゃんと進んでいる場合が多いのだが。
しかし、オフ会などで直接会うと、当の本人はおとなしく謙虚で柔軟な場合が多いのだ。
また、ネットで非常に親しくなったのちに直接お目にかかると、最初から旧知の仲のような気持ちになるのだが、その一方で心のどこかにかすかに引っかかる違和感は、やむをえないものもしくは尊重しなければならない違いとして保留にしていく必要があったりするのだ。
実はこれ、ネットの世界特有のものではない
他人とプロジェクトをこなすとき、恋人が生活のパートナーとなるとき、あるいは育った国が違う人とお付き合いをするとき、もっといえば善人と悪人(相対的意味で)とが付き合うとき。それらはレベルや程度が違うことを踏まえて包括的に考えるなら同じ問題なのだと思える。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でという本が話題になっています。
じつはこれ、ちょっと違った意味で話題になっているのですが、ここにもまた同じ問題を見ることができるのかもしれない。